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すこやかな日々

お風呂

 

 

京都から帰って泥のように眠っていた。

やっと目が覚めたと思ったら、時計の針は昼の13時を指している。

おはようと言うにはあまりにも遅すぎる起床だ。

父はもうとっくに仕事に行ってしまった。人の気配がない家はがらんとして少し寂しい。3年間も一人暮らしをしていたというのに、またそんなことを考えるなんて不思議なものだ。

名古屋に来てから、なんだか前よりもずっとずっと孤独を感じるようになってしまった。

 

今日はバイトもないしこのままベッドで一日を終えてしまおうか。

そんなふうにも考えたけど、なぜだか急に居心地が悪くなってしまって、なんとなく窓を開けてみた。

風が冷たい。空は真っ青で雲一つなかった。

「さすらい」という曲を思い出した。スピッツがカバーしたやつ。奥田民生の。

雲の形を真に受けてしまったんだっけな。そんな歌詞だった。

衝動とも言うんだろうか。今ならなんかちょっとわかる気がする。

 

ベッドから身を起こし、乱れたシーツを整える。

家中の窓を開けると、なまぬるい空気が少しずつ冷えて澄んでいった。

差し込んだ光のおかげだろうか。寂しかった家が少しだけ明るくなったようだ。

観葉植物を部屋から出して、鉢の中に直接水道の水を注ぎこんだ。正しいやり方ではないんだろうけど、土の中の空気を入れ替えるのにいいんだとどこかのサイトに書いてあったような気がする。

ベランダのいつもの場所に鉢を置いたところで、ガジュマルの枝先から小さなぴかぴかの新しい葉が出ているのに気づく。そういえばなんだか茎が伸びたかも。

ほっといてもちゃんと生きているんだなあと感心した。

 

さっきまでの気怠さはいつのまにか消えていた。

掃除機をかけ、溜まっていた服を整理し、ついでに化粧ブラシの洗浄までしながら、今日の行先について考えを巡らせる。

あ、そういえば夕飯はどうしよう。冷蔵庫にはまだビーフシチューが残っているんだっけ。キッチンの片隅で埃をかぶっていた赤ワインで煮込んだら、いつもより美味しくできたやつ。父にも好評だった。今晩は残ったそれを全部さらってしまうことにして、ご飯を炊いてから家を出た。

 

なんやかんやでもう16時だ。すっかり陽は傾きかけている。

行先はずっと気になっていた隣の市にある大きなスーパー銭湯に決めた。

電車やバスに乗るよりも今日は歩きたかったので、寒風に縮こまりながら国道沿いを進んでいく。イヤホンから流れてくる「さすらい」が今日のお供だ。

片道一時間の遠足。

通りがかった素敵なシフォンケーキのお店が店休日だと知って悲しんだり、知らない家の出窓に置かれたぬいぐるみに思いを馳せたり。知らない道を歩くのは楽しい。

 

スーパー銭湯の看板が見えたころにはあたりは暗くなっていた。

大きくてきれいな銭湯だ。ネオンがぴかぴか。

韓国風の岩盤浴があるらしく、地元の人には人気のスポットだとグーグルマップのレビューに書いてあった。

種類豊富できらびやかな岩盤浴に惹かれつつも、時間も時間なので今日のところは2階の温泉だけ入ることにする。

 

そうして入浴券を買ったところで、今の今まで何も食べていなかったことに気づいた。

 

腹が減っては風呂には入れぬ。

まずは併設されているお食事処でご飯を食べよう。

再度頭の中で自分と会議を開く。生姜焼き定食派を抑えてかつ丼派が多数で可決になった。

空腹で食べるかつ丼はすごく美味しかった。が、名古屋の赤だしはやっぱりまだ好きになれない。

 

腹も膨れたので、2階へ上がって脱衣所に向かう。

金曜日の夕方だから混んでいるかもと予想していたが、思ったよりも人がいなくてほっとした。

服を脱いで浴場に進む。

お風呂に入っている時間よりも、体を洗う時間のほうが実は一番好きだったりする。

シャンプーのにおい、石鹸の泡、ボディタオルで肌をこする感触。お湯で体を流せば一緒に自分の中の汚い何かも洗われていくような感覚がする。

スポンジや洗剤が好きなのもこういうのがなんとなく関係しているのかも。

私は洗うという行為と縁が深いみたいだ。

 

ここは炭酸泉がウリらしく、お湯に浸かると細かい泡が肌の上ではじけていった。

疲労回復、ストレス解消、美肌に効果があるらしい。

温泉の説明文を読むのもひとつの楽しみだ。まあどこもだいたい同じだけど。

そうして考え事をしながらお湯に浸かる、湯船のへりに上がって体を冷ますを繰り返す。私はすぐにのぼせてしまうので、この方法が一番ちょうどいい。

 

お風呂から出た後は瓶に入ったマミーを一気飲みして、かき氷を食べた。外は極寒だし、身体を温めた後で内側から冷ますなんてたいそう矛盾した行為だが、最近「めがね」という映画を見て、どうしても食べたくなってしまったのだ。

かき氷はいつも最後までちゃんと食べられない。食べるスピードが追い付かなくてでろでろにしてしまう。

今回も例に漏れずかき氷は水になった。宇治抹茶のうすい緑色がきれいだな、なんて呑気なことを思った。

 

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卒業論文を提出してから1か月が経った。

鏡と歌詞に向き合い続けた1年間。

ずっと好きでやってきたことのはずなのに、いつの間にか苦しくてとてもつらいことに変わってしまった。

考えても考えても文章が書けない。言葉が頭の中で浮かんでは消えて、何一つ形にならないまま時間だけが過ぎていく。

今まで自分が築きあげたと思っていたものは本当はすべて嘘だったんじゃないか。自分のやっていることは無意味で何の価値もなくて、ただの馬鹿げたこじつけなのではないか。

怖くて怖くて、5日も眠れていない。キーボードを叩く指先が冷たくなって、目がちかちかする。呼吸が浅くなる。深夜のマクドナルドで泣きながら卒論を書いた日のことを私は一生忘れないだろう。

 

それでもなんとか周囲に助けられ、卒論はぎりぎりで提出することができた。

終わったことは嬉しかった。みんなの優しさもありがたかった。

でも、すべてから解放されたわけではなかった。卒論期間で私の中の健やかな部分は大きく損ねられてしまったらしい。

提出間際に先生がくれた童夢のケーキは味がしなかったし、休んだ忘年会の代わりにお父さんが連れて行ってくれた焼肉は、思っていたよりも美味しく食べられなかった。名古屋に帰ると一気に全身の力が抜けて、次の日は丸々1日眠っていた。

 

たくさん眠っても、映画を見ても、大好きな福岡に帰って友達と会っても、頭のどこかで卒論のことを考えてしまう。

3回生の時、「卒論が終わった時には自分がそのテーマのいちばんの研究者になっていなさい」と先生に言われたのを思い出す。

卒論が終わったあとの私は、鏡も歌詞を見るのも嫌いになっていた。

 

 

「ちゃんとできなかった」という失敗の経験は、今まで自分が必死に積み上げてきた何かを跡形もなく消してしまった。

卒論の合格が伝えられほっとしたものの、これから何をやってもなんだかうまくいかないんじゃないのかなあ。

そんな思いを拭えないまま嫌々ゼミの卒論反省会に参加したら、思いがけず2月にある卒業論文発表会のゼミ代表に指名されてしまった。

 

なんで?あれだけボロボロな内容だったのを知っていながら、どうして私なの?

選ばれた嬉しさなんて微塵も感じられない。

当日は学生だけでなく教授たちの前で発表することになっている。あれを発表するなんて無理。

何よりも、またあんな地獄みたいな日々に戻って惨めな思いはしたくなかった。

不安そうな私に先生は「あれだけ頑張ってきたんだから、最後に悔いなくやってみなさい」と言って、来週のゼミの時間にスライドを見せるよう指示した。

 

やることになったからには嫌でも向き合わなくちゃいけない。

提出してから、自分が書いた卒論は怖くて一度も読めていない。

案の定、億劫になってゼミ当日の朝までスライド作成ができなかったが、時間は有限だ。ゼミまであと5時間。もう逃げることはできない。

意を決して、1か月ぶりに自分のやってきたことを振り返ってみたら、案外自分の言いたかったことがすっと頭に浮かぶような気がした。

一つ一つ、言葉を選んで打ち込んでいく。大丈夫、ちゃんと文章になってる。できる。無心で作業をした。恐怖心はいつのまにか無くなっていた。

 

先生と発表の打ち合わせをした後、帰路につく。バスの中から雪を眺めながら、ずっと考え事をしていた。

時間が解決してくれるっていうのは本当だ。たぶん、知らないうちに私の脳は少しづつ恐怖心を忘れる努力をしていたのだ。ひと月もの間、時間をかけて。うまくできているなあ、ほっといても成長しているのだ。勝手に。

無くなったと思っていたものは、形を変えてそこにある。氷が解けて水になるみたいに、消えてしまったわけじゃないのかもしれない。無駄なことなんて何もなかったのだ。

そう言い聞かせたら、少し気が晴れたような気がした。

 

もちろん、不安はまだまだ拭えないし、自信なんてものは1ミリもない。

でもたぶん大丈夫だ。今日はちゃんと起きられた。掃除機もかけられた。先延ばしにしていたことも片づけた。ちゃんと歌詞に目が向けられるようになった。お風呂は気持ちよかったし、かつ丼もかき氷も美味しく食べられた。こうやって、ちゃんと文章も書けている。

できること、あるものを一つ一つ数えていく。明日もお風呂に浸かろう。腹ごしらえをして、もう一度ちゃんとやってみよう。大丈夫。

低空飛行でも進むのだ。